PADDLER'S LOGBOOK:-雑感
2020-05-08T23:43:51+09:00
papapaddleraki
Diary of PAPAPADDLER
Excite Blog
手間を楽しむ、ということ。
http://papapaddle.exblog.jp/29757933/
2018-09-21T09:55:00+09:00
2020-04-26T15:05:06+09:00
2018-09-23T10:12:14+09:00
papapaddleraki
-雑感
楽しかった休日が終わり、木曽へ帰るNさんを見送ってからは通常モード。仕事を終えて帰宅して、ともちゃんと手分けして遊び道具のお片付けに取り掛かる。
ともちゃんの担当はウェットスーツやラッシュガード、グローブ&ソックスなどのウェア関係。
僕の担当はフネやパドル、シュノーケリングマスクの潮抜きやエビタモのほつれを縫ったりなどのイクイップメント関係。
彼女の仕事は普段の生活の家事とカブるので出来るならお手伝いさんか執事にやってもらえるのが理想みたいだけど(苦笑)、僕はフネの解体やクリーニング&リペアをやることで状態をチェック出来るし、初めてこのフネを手に入れた時のワクワク感が甦るので自分で全部やりたい派(笑)
残りの一生でこのフネを何度組立てたり解体したり出来るのか?って思うと、こんな楽しい仕事を他の誰かにやらせてたまるか! この心理に共感出来る人は野遊びを長く続けてる(続けられてる)人だけ。
カヌー&カヤックをいかに確実かつ美しくクルマに積み込むか?で頭を悩ませている時も、フィールドに向かう長距離ドライブも、川下りの後にバス停でバスを待ってる時間も...手間を苦じゃなく楽しみに思えるから何十年も同じことで楽しめるのかなって。
で、実は最近、人付き合いも同じじゃないかと思うようになって来て、夫婦も友達も好きな相手なら損得抜きで“してあげられる”もんじゃないかと。
限りある時間をそういう趣味や人と過ごしたいものです。]]>
"ホントは動物と話せるのではないか?"疑惑
http://papapaddle.exblog.jp/29741910/
2018-09-14T20:02:00+09:00
2020-04-26T15:08:23+09:00
2018-09-14T11:04:59+09:00
papapaddleraki
-雑感
昔々、小学生だった頃のムスコは鳥羽水族館で水槽越しにアザラシに好かれて追いかけられ、まるで“アザラシ使い”みたいになってたけど、そのハハである相棒は、このナガクビガメさんに気に入られて...
『カメさん、こっちおいで〜♪』
『???』
『カワイイわねぇ、こっちに来て顔見せて♪』
『オバちゃん、な、なんでオイラの言葉喋れるのん?』
ぱっと見、会話が成立して周りのお客さんが騒然となってた(笑)
先々週もシーカヤックで『トビウオ飛ばないかなぁ?』って言った直後にフネの前2mをピューってトビウオが飛翔したし、おまじないみたいに歌を歌うだけでカモシカもライチョウもギフチョウもオオサンショウウオも出て来るし...。
この人は時々動物と話せるのではないかと感じる瞬間があります、マジで。 ]]>
新鮮さより楽チン?
http://papapaddle.exblog.jp/29735241/
2018-09-09T21:23:00+09:00
2018-10-03T00:33:02+09:00
2018-09-10T15:30:02+09:00
papapaddleraki
-雑感
帰り道に買った僕の本(右)
昨日宅急便で届いたともちゃんの本(左)
夫婦で同じような本を読んでることに苦笑い。
ま、夫婦で日本野鳥の会会員なんだけど...
出会った頃は価値観も興味の対象も違って、当然ながら読む本も観る映画も別々だった僕らだけど、お互いの趣味を時々垣間見てるうちに段々と共通の物事に興味を覚えるようになって...。
30数年が経ち、気が付けばこんな感じで同じジャンルの本を替えっこして読むようになってた。
似た者夫婦...これって新鮮さがなくなるという意味では実はとても危険な兆候なのかもしれないんだけど、一緒に居て楽チンなのは確かだけどね。]]>
仕事始め
http://papapaddle.exblog.jp/28994950/
2018-01-06T20:31:00+09:00
2020-04-30T21:51:14+09:00
2018-01-08T09:39:27+09:00
papapaddleraki
-雑感
photo:家に帰るとネコたちがこんな風に癒してくれるのがありがたい
今日から仕事始め。
正直なところ、今年ほど仕事に戻りたいって思ったお正月はなかったので、通常モードにホッとひと安心。時間があると色んなことが頭を過り「思考」の嵐に巻き込まれてしまって収拾がつかなくなるので、忙しくしてる方がずっと心が安定していられるもの。
もちろん仕事の「思考」も平安なわけではないけれど、こちらは思いついたことをすぐに実行に移すことが出来て、何かしらの結果に結びつくという実感があるので、前向きにな「思考」をめぐらせることが出来るぶん楽なのかも。
この先、何がどうなるのか判らない中で、未来でも過去でもなく、今日、今出来ることをただひたすら頑張っていくしかない...と自分に無理矢理に思い込ませて。]]>
心と身体
http://papapaddle.exblog.jp/28590358/
2017-12-11T21:48:00+09:00
2020-04-30T22:28:31+09:00
2017-12-14T09:09:35+09:00
papapaddleraki
-雑感
心と身体は一体ではなく、実は別々に存在していること。
身体がなければ他人が僕の存在を認識することはできないけれど、僕自身にとっては身体がなくても僕が存在すること...食べなくても眠らなくても頭が冴えてもの凄いスピードで思考が進むことを体感してそれを確信した。
これまでにも食べられないとか眠れないとかってこともなくはなかったけど、必ず食べられないことや眠れないこと自体に悩んで、食べなければ、眠らなければと努力したものだったけど、今回はその感覚自体が全くなくて、食べられなくても眠れなくても、何とも感じられないことに自分でもびっくりした。
やっぱり「僕」という存在は「心」なのであって、「体」はその乗り物に過ぎないんだなって。
逆に言えば、「体」を失っても「心」はいつまでも残るんじゃないか?つまり体がなければ、僕の存在が消えてしまうという一般的な考え方は間違いなんじゃないのか?
そんな感じがした。
そう考えると、死は怖くないし、逆に言えば決して「リセット」出来ないって意味で、日々生きることはとても怖いこと。
宗教的な意味ではなく、哲学的な意味で、身体のあるうちにやるべきことをやらないといけない気がしてきた。]]>
110km/h
http://papapaddle.exblog.jp/28220656/
2017-11-09T14:07:00+09:00
2020-04-30T23:12:33+09:00
2017-11-09T14:07:10+09:00
papapaddleraki
-雑感
昨夕、今月初めから制限速度が110km/hになった新東名高速の新静岡IC~森掛川IC(約50km)を初めて走った。実際に走ってみると判るけれど、従来の100km/hでこの区間を走ってみると50km/hほどに感じる...それもそのはずこの区間の設計速度は140km/hで、今回は120km/hまでなら十分な安全性を確保出来るという判断から制限速度のアップになったようだ(新東名は当初120km/h制限にしようという計画だったわけだし)。
ただ、実際に走ってみて感じたことは、今すぐに制限速度を100km/hに戻すべきだということ。もちろんこの道路を110km/hで走行することは全く問題ない(140km/hでも楽々だろう)んだけど、問題は大型トラックのマナー。
この区間については「大型車両について第1通行帯(一番左の車線)の走行を義務づけ」になっていて、3車線区間だけでなく2車線区間も大型車は第1通行帯(一番左)しか走ってはいけない...つまりこの50km区間で大型車の追い越しは禁止という決まりなのだ。
僕は海外ではスペインでしか運転をしたことがないので欧州の事情に詳しくないんだけど、このルールは欧州では昔からお馴染みのものらしく、少なくとも30年前のスペインでもこれと同様の規制が行われていて、実際高速道路で追い越しを掛けた大型車が一発でパトカーに止められているのを見たことがあった。 ところが、新東名の110km/h区間では、110km/hに変わるという表示はあるものの、大型車の追い越し車線走行を禁止する旨の標識が全く無く、大型トラックはいつも通り追い越し車線からの追い越しを掛けているし、時には第3通行帯(一番右の車線)を連なって追い越しを掛けるでもなく80km/hほどでノロノロ運転を続けていた。
第3通行帯を110km/hで走行してきた乗用車は、大型車が車線に入ってくるたびにブレーキを踏んで80km/hまでスピードダウン、大型車が左に車線変更するのを待って、また110km/hまで加速...ってのを何度も何度も繰り返す必要があり、時にはヤンチャな乗用車が車間距離を詰めてパッシングをする場面もあって危険極まりない感じだった。 大型トラックが追い越し車線を走らないよう啓蒙活動するためにも、第2、第3走行帯を走る大型トラックを一斉に検挙すれば良いと思うけど、この区間で遭遇した2台の白黒パトカーと3台の覆面パトカーは全く関知せず。これはこの問題が大型トラック側にだけあるのではないことが理由なんだろうなと思う。
大型トラックが道交法違反をしてまで追い越しを掛けるには理由...それは、走行車線を60km/hや70km/hの...まるで止まっているように見えるほど低速で走る乗用車の存在だ。
後ろに大型トラックが迫っていても全く気付いていない雰囲気で、下り坂はなんとか80km/hを越えるものの、上り坂では50km/hぐらいまで速度を落として走る"エコ"ならぬ”エゴ”運転な乗用車。追い越し車線は走ってはいけない上にこんなのにトラップされてしまうとトラックドライバーさんがイライラして追い越し車線に飛び出してくる気持ちも分からなくない気がする。
"追い越し車線居座りノロノロ走行"な大型トラックの取り締まりを強化すべしという声が多いのは確かだけど、道交法1条「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」...にあるように安全かつ円滑が目的であることを考えれば、流れを乱す低速走行の乗用車を取締まる法律を作って真っ先に改善する必要もあるんじゃないだろうか?(そうじゃないとトラックドライバーさんたちが可哀想だ。)
全てのクルマがなるべく速度差なくスムーズに走ることで安全が守られるということや、通行帯違反はとても危険であること(距離50kmの区間で速度が90km/hから80km/hに落ちたとしても、その差は4分30秒でしかない。)をもっと周知させて、周りの環境を無視して低速で走る”エゴ”運転な乗用車に対して手立てを打たないのならば、この区間の110km/h化はとても危険じゃないかと思うのだ。
この国の交通マナーを改善しない限り高速道路の速度制限緩和は危険...実際に走ってみてそんな風に感じた。]]>
凸と凹
http://papapaddle.exblog.jp/28201878/
2017-11-06T14:00:00+09:00
2020-04-30T23:18:41+09:00
2017-11-06T14:03:27+09:00
papapaddleraki
-雑感
photo:都会の人は仕事帰りで¥1,600、僕は1日掛かりで¥25,000...田舎暮らしはキビシイ(涙)
夫婦は似た者同士より凸凹がいい...結婚して30年が経って、最近つくづくそう感じるようになった。
僕らは幼馴染だったとか、同じ趣味を通じてとか、何となくシンパシーを感じてってのではなく、唯一の接点である"スペイン"でたった一度だけ人生が交わっただけの関係なので、見事に趣味や志向が違う。
ただ、結婚ってのはお互いが少なからず何かを犠牲にするって部分もあって、僕は気ままな旅人であることを捨ててお堅い仕事に就き、彼女は都会暮らしとキャリアウーマンへの道を捨てて"お嫁ちゃん"になることで、今の暮らしが成り立っているとも言える。
もし僕らが結婚しなかったら...「典型的なB型人間」の僕は50歳を超えた今でもフーテンの寅さんみたいに好きなことだけやってふらふらしてただろうし、「見た目はオンナ、中身はオトコ」の彼女は世界を股にかけて仕事に生きていただろうと思う。
ま、人生に"たられば"はないし、結局は巡り巡って今のライフスタイルに行き着いてた気がしないでもないけれど、あのままだったら...。
あ、でも、僕らが結婚しなかったら、僕は今ほど音楽やアートを好きになることはなかったし、彼女は氷点下の湖でFeathercraftを漕ぐことに喜びを感じることもなかったんだろうな、きっと。
先ほど、「結婚ってのはお互いが少なからず何かを犠牲にする」って書いた。
その犠牲が夫婦で50:50なら問題ないけど、実際にはその"犠牲"は同じだけではないのが悩ましいところで、正直なところ彼女が都会暮らしを諦め、22歳の若さでこの何もない田舎に引っ越すことになった時点で彼女の犠牲の方がずっと大きくなってて、僕はこの30数年間、そのことを負い目に感じて暮らしてきた。 photo:彼女のこの一ヶ月のアウトドアライフ
地方都市での暮らしに欠けているものは数々あれど、やっぱり何と言っても一番足りないのは“文化の薫り”と"ショッピングの愉しみ"なんだろうと思う。
野遊びのフィールドに近いということは則ち、一流の芸術、エンターテイメント、そして洒落たショップや流行に縁遠いということを意味する。
僕みたいに無目的なお買い物が苦手で、目的のショップに行って、買って、さぁ帰ろう!ってタイプならインターネットショッピングで事足りる(...ってか、慣れない都会で店員さんに田舎者扱いされながらオドオド買い物するより、インドからでもクロアチアからでも自由自在に欲しいものが買える方がいい...笑)けれど、ともちゃんみたいに特に欲しいモノがあるわけでもないけど、ショップを見て歩くこと自体が楽しい♪ってタイプはネットショップじゃ満足できないだろうし、もちろん僕がどっちを選ぶ?と聞かれれば、野遊びを選ぶと即答するけど、ともちゃんはその逆。根っからの都会派の彼女にとって、我が家のロケーションは実は決して好ましいわけではない...これが僕が彼女に田舎暮らしを強いている中で一番申し訳なく思ってる事でもある。
もちろん、田舎生まれ田舎育ちの僕が、世間さま並みにゲージュツや流行を理解しようと思っても、そんな素養も教育もないんだから無理なのはしょうがないにしても、せめて次の世代で生きる子供達には、時々でいいから、そっちの方面(笑)の経験を積ませたい...そんな気持ちから(...だけでは勿論なくて、僕自身もわかんないくせに“そっち系”に知的好奇心をくすぐられるから行くわけなんだけど。)、0才とか1才の頃から他の人に迷惑を掛けないよう、人の少ない時間帯を選んで美術館や博物館に足を運んだり、ミュージカルやコンサートに連れ出したりもした。(4才でロック系のコンサートに連れて行かれたムスコはPAから流れる大音響に耳を塞いで半泣きになってたっけ...笑) photo:彼女のこの一ヶ月のアーバンライフ
でも、やっぱり、『なんとな~くライブハウスや美術館の前を通りかかって、ちょっと入ってみるか?』ってな自然な出会いは望むべくもなくて、何日も何ヶ月も前からチケットを予約して、新幹線の切符まで早めに買って...そんなバリバリ肩に力の入った方法でしか触れることができないのが、残念なことだけど田舎暮らしの実情なのだ。
ただ、女性は環境に適応する能力が男性よりも優れているようで、子育てを終えて二人暮らしになって以降、ともちゃんは不便な田舎暮らしの中でも自分なりに楽しむ術を少しづつ会得し始め、僕の休日である水曜日だけは僕に付き合いつつも、それ以外の日々を自分の教養を高めたり、知的好奇心を満たしたりするための時間として上手に使っている。
それとともに都会での洗練されたアーバンライフや静かで穏やかなインドアが得意なお嬢さんを、こんな田舎町に引っ張ってしまった僕の”負い目”も少しづつ解消されていく。そしてお互いがお互いの色に染めて、都会っ子のともちゃんが逞しいアウトドア奥さまに、粗野な田舎者の僕がほんの少しは芸術が理解出来るジェントルマンに...なれているかはともかく(苦笑)、ふたりで暮らすことでお互いの興味の対象=人生の幅が広がったのは確かだと思うのだ。
夫婦は似た者同士より凸凹がいい...最近つくづくそう感じるようになった。ちなみにウチの場合、何ごとにも積極的でポジティヴな彼女が凸で、どちらかと言うと受け身で女々しくて消極的な僕が凹なんだけど...(笑)
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庭のカマキリを見て思うこと。
http://papapaddle.exblog.jp/28178790/
2017-11-02T19:34:00+09:00
2020-05-02T14:41:33+09:00
2017-11-03T10:15:28+09:00
papapaddleraki
-雑感
photo:クルクル動くこの目がカワイイ♪
インターネットの功罪..."罪"の方ばかり取り上げられるけど、ナイフで人を刺した→ナイフが悪いって発想と同じで、インターネットが悪いのではなく、使い方が悪いんじゃないかと思う(苦笑)。
これは、ナイフだけじゃなく、火も、嗜好品も同じ。便利な道具、圧倒的なパワーを秘めた道具って使い方を誤ると、途端に凶器に変わるものだ。(ただしピストルなどの小型の銃は人に向ける以外の目的がないので便利な道具というよりむしろ凶器そのものだと思うけど...)
小春日和の庭で過ごしていて、薔薇の花の向こうから顔を覘かせたカマキリ。
たぶん真夏に自分より体の大きなクマゼミを捕まえてムシャムシャ食べていた子だと思うんだけど、この季節になってもまだ元気に過ごしているようだ。
『ねぇ、カマキリってどれぐらい生きるの?』
ともちゃんにそう尋ねられ、答えられない僕。そう、カマキリの♂が♀に食べられるって話は知っているけど、これまで飼ったこともなければ、興味を持って調べたこともないので、僕はカマキリについてほとんど何も知らないことに気づいた。 そんな時、ジーンズのヒップポケットに入れたiPhoneが役に立つ。
早速Googleで”カマキリ 寿命”って検索してみる。
カマキリの寿命は基本的に1年。生物が生きる目的は子孫を残すことだし、個体の寿命が短いってことは環境変化に対応するための進化のスピードも早い...DNAの生き残り戦略なわけで、寿命が短い=可哀相って発想は間違っている(人間のように無駄に長生きだと、僕みたいに時代に付いていけなくて愚痴ばかり言ってる不幸な老後になる...苦笑)んだろうけど、冬の間を卵で過ごし、春に孵化し、夏に大人になって、秋に産卵し、寒さと餌不足で死んでいく運命のようだ。 photo:夏にはこんなにチビだった(2017.7.15)
カマキリの姿がよく見られるのは10月までで、11月以降にその姿を見ることは稀だ、なんて書いてあったけど、我が家のガレージガーデンには夏ぐらいからずっと2匹のカマキリが棲み付いていて、今も元気日虫を捕まえて暮らしている。薔薇にいる1匹は空を飛ぶから♂、クレマチスのもう1匹は飛んだ姿を見たことがないし、お尻に産卵のための管が出てるので♀のようだ。(*ちなみに♀が♂を食べちゃうのは餌が不足がちの飼育下においてであって、日本のカマキリではあまり見られない現象のようだ。日本の♀は優しいのね...笑)
庭で実際のカマキリを見ながら、カマキリの生態を調べられるということ。
人によってはGoogleで検索して得た知識なんて、すぐに忘れてしまうからダメだ!なんて言うけれど、こうして本物を目にして、指でチョイチョイとイタズラしながら得た知識って、そう簡単には忘れないし、興味を持った事象をその場ですぐに調べられるって素晴らしいことで、決して"罪"ではなく"功"だと思うんだけどなぁ。]]>
カタルーニャと三重県
http://papapaddle.exblog.jp/28163407/
2017-10-31T00:22:00+09:00
2020-05-02T14:44:14+09:00
2017-10-31T09:50:23+09:00
papapaddleraki
-雑感
連日報道されているスペイン・カタルーニャ地方の独立問題。
1980年代までのスペインの歴史を学んだ僕らですら予想外の展開なわけなので、一般の人には良く分からないってのが正直なところだと思う。
身近な例を挙げて分かりやすく言えば、桑名市や四日市市などの北勢地域が三重県から独立宣言するようなもの...言語が違う、文化が違う、経済的に発展してるのに、首都(県庁)が田舎にあって(マドリー/津市)、負担した税金の多くが南部(アンダルシア/東紀州)のために使われていることに不満が募っている...って構図が何となく似てる気がする。
SHARPさんが一息ついて今はやや状況が違うだろうけど、数年前に三重県は平均県民所得が全国3位だったことがあった。でも1人当たりの年間所得は北勢が356万円に対し、東紀州は219万円と南北格差が深刻。その理由は県内総生産の地域別内訳を比較すると明らかで、北勢が7.2兆円で、その他の三重県が3.5兆円と2/3を占めるほど。7.2兆円と言う経済規模の数字は岐阜、滋賀、京都全県(府)より、さらに言えば福井+石川+富山の3県合計並みにが大きいんだから、北勢だけが独立してもやっていけるという点でカタルーニャが置かれている状況と似ている(笑) そんな数字を眺めていると、数年前に北勢地域の某社長さんが『三重県は北勢だけなら日本一だでね。』と言って苦笑いされてたのを思い出す。"北勢だけなら"と名古屋言葉の"だでね"が三重県であって三重県でないような...カタルーニャ独立の気運とリンクしてるような気がするのだ。
ただ、欧州の独立気運は僕らが桑名や四日市に名古屋圏の食べ物や文化が根付いたり、人々が名古屋言葉を話し始めてることに、やや違和感を感じるのとは桁違いで、スペインに限らず欧州の国境の線引きは言語や文化じゃなく(スペイン語=カスティリア語とカタラン語は青森弁と鹿児島弁以上...もしかしたらイタリア語の方が似てるし、文化や気質は日本と韓国ほど違うけど...。)、為政者のパワーバランスだけで決まってるので、全ての国で同様の火種があると思っていいのかと。(それだけに他の国もこの独立を認めたくない)
しかも、この独立運動の初期、市民というよりむしろ政治家たちがさらなる利権や権力を欲して、カタラン人のプライドを利用して運動を盛り上げようと画策したことが、三重県の南北問題よりもさらに深刻だし、同じく独立運動が盛んなバスク(あちこちに爆弾仕掛けまくり系だったけど...涙)とも質が違うのだろう。 フランコ独裁から解放されて十数年の1980年代にバルセロナで普通の人たちと話して感じた肌感覚と今の状況があまりにも落差があって...
スペインとカタルーニャの人々の未来にとって、喧嘩別れが良いことなのかどうか冷静に考えて欲しいんだけどなぁ。
...って、カタルーニャと三重県の南北問題を比較しても三重県民以外には全然分かりやすくないかな?(苦笑)]]>
¡¡ Enhorabuena papis !!
http://papapaddle.exblog.jp/27392801/
2017-09-09T10:01:00+09:00
2020-05-03T15:34:20+09:00
2017-09-09T11:02:26+09:00
papapaddleraki
-雑感
photo:Plaza de las Cortesで一服した朝
『ねぇ、去年の今日はサグラダファミリアにいたのよね〜♪』
朝食を食べている時、ともちゃんがトーストをかじりつつ斜め45°を見上げながらそう呟いた。そうか、あれからもう1年なのか...。
最初で最後のスペインへの家族旅行。大人になった2人の子供たちと共に、僕らの青春の痕跡を辿って、バルセロナからアンダルシアへ。
『スペイン、楽しかったわねぇ〜。』
あれから1年、僕ら2人を取り巻く環境は何一つ変わっていなくて、今度の休日は海にするか山にするか、はたまた川か?なんてことを考えながら、ネコたちとの賑やかで穏やかな日々なんだけど、ムスメは就職し、仕事内容は超ハードだけれど先輩や同僚に可愛がってもらって、とても素晴らしい社会人生活を送っているようだし(なんだか写真を見るたびオシャレさんになってる気がする)、春先に就職先が決まったムスコは去年までと同じく研究室の先生や仲間たちと欧州に滞在して学生生活最後の"学び”を満喫してて(*昨日はミュンヘンにある就職先を訪ねて、未来の同僚になるレバノン人だかクロアチア人だかの先輩に会社を案内してもらったようで...彫りの深い濃い顔の若者と笑顔のツーショット写真が送られてきた...笑)...変わらない僕らと変わっていく子供たちの対比が実に面白いなと思う。 『スペイン、楽しかったわねぇ〜。』
うん、ホント、楽しかったね。でも、あの旅で僕の心に一番残っているのは、サグラダファミリアでもアランブラでもなく、9月16日のマドリッドの最後の夜。
トレド観光から戻って、ホテルの部屋に入ると、そこにHotel Villa Realのスタッフさんから手書きのバースデーカードとシャンパンが用意されてて...
Cumpleaños feliz ハッピーバースデー
cumpleaños feliz ハッピーバースデー
te deseamos Aqui 私たちは願ってます。アキちゃんに...
cumpleaños feliz. 幸せなお誕生日を
ともちゃんがスペイン語で"Cumpleaños feliz"(Happy Birthdayのメロディ)を歌ってくれたこと。 そして、その後、疲れて寝てたはずの子どもたちが、僕のためにプラド美術館のあるレティロ公園のずっと北にある王室御用達のケーキ屋さんまで兄妹だけで行って(結構遠いし、結構人通りがない物騒な場所を抜けて...)、スペイン語しか話せないオバちゃんの店員さんにパパの51歳の誕生日のケーキであることを何とか伝えて買ってくれたこと。
あの夜は相当疲れていたのに、あまりに感激して眠れず、日の出前にホテルの前の公園に出てセルバンテスの銅像を見上げつつ、独りタバコをふかしながら不覚にもちょっとだけ涙ぐんでしまったっけ(笑)
僕にとって最高に幸せだった51歳がまもなく終わる。
子どもたちは僕らの手の届かない世界へと羽ばたいて行って、それぞれに僕ら両親よりも大切な人がいて、今度4人全員が揃うのは僕のお葬式になるかもしれないなって...ちょっぴり寂しい気もする時があるけれど、子どもを育てるってのはこういうことなんだなって、喜びと寂しさの入り混じった感情そのものを遠い目をしながら味わう僕だ。
"¡¡Enhorabuena papis!!"(¡¡パパ、おめでとう!!)
時々あのバースデーケーキに添えられたカードを取り出してニヤニヤしながら。
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着古したリネンのような
http://papapaddle.exblog.jp/27256125/
2017-09-03T23:30:00+09:00
2020-05-05T22:57:59+09:00
2017-09-03T11:38:52+09:00
papapaddleraki
-雑感
昼休みに帰宅したら、ともちゃんがスッバラしく似合うスカートを履いてニコニコ笑ってた。
『ねぇ、靴はこの白いのとKEENのキャンヴァスのとどっちが似合うと思う?』
聞けば、先月末に採寸してオーダーしたベルギーリネンのスカートが出来上がって、受け取りに行ってきたのだという。
僕は何度かスーツをオーダーしてて...と言うか、短足+短腕、45cmの首回り、プリンとしたまん丸のお尻(苦笑)という特殊な体型ゆえに肩が凝らずに着られるスーツはオーダーするしかないんだけど、160cmで●▲kg、いわゆる中肉中背なともちゃんは、ほとんどの既製服の標準サイズがぴったりなので、今回のこのスカートが人生初のオーダーなんだそうだ。
とにかくリネンが大好きな作家さんが彼女のために作ってくれた欧州産リネンのスカート。
良く聞くと、その作家さんは昔々薪狩りをご一緒したことがあるヨットマンの奥さまなのだそうで、生地と手作りにこだわった作品を一つ一つ手作りで世に送り出していらっしゃるのだそうだ(びっくり!)。 僕はあまりファッションには詳しくないのでうかつなことは書けないけど、ヨーロッパでリネンといえば農夫の服ってイメージがあって、日常的に着続けるうちに生地がエイジングされてどんどんしなやかで着心地が良くなっていく「人とともに育つ」感じがある。
オーダーゆえにサイズはピッタリだし(今後の体型変化に対応できるよう紐タイプ。ウェストが+24cmまでOKらしい...笑)、彩度をやや落としたマスタードイエローも良い色だし、何といっても僕が抱くともちゃんのイメージ...艶やかなシルクでも無骨なコットンでも、当然ながらハードなレザーでもないほっこりしたリネンのような感じ...に良くマッチしてて、とても似合っているように感じた。
人生の半ばを過ぎ、子育てを終え、エンジンを切って穏やかに滑空するグライダーのような時期に入った僕ら。目先の流行や派手さではなく、もちろん安さでもなく、残りの人生を共に長く過ごしていける服選び。
これからはファストファッションとは真逆の、一点一点良く吟味した服を長く着続けて...いつかそれぞれが"何度も水をくぐったヘヴィなコットン"のような頑固さと"着古したリネンのような優しさと風合い"を持つ老夫婦になれたらいいな、と思う。]]>
臆病者であること
http://papapaddle.exblog.jp/27141369/
2017-08-28T23:05:00+09:00
2020-05-05T23:06:53+09:00
2017-08-29T10:15:11+09:00
papapaddleraki
-雑感
photo:これを忘れたら水に入ることを諦める...スローロープ
夏休み最後の日曜日の昨日、全国の海や川で11人が死亡、6名が行方不明になった。
警察庁の資料によれば、2016年度の水難事故の発生件数と人数は1,505件/1,742人。うち死者、行方不明者は816人となっている。そのほとんどが6~8月の夏の時期に起きていると推測できるので、この季節は交通死亡事故と変わらない頻度で水難死亡事故が起こっているということだ。
水難事故のニュースを見聞きするたび、どうしてこんな高波の中で水に入ろうと思ったんだろう?とか、スローロープやP.F.Dの準備がないのはなぜだろう?とか、”自分とは違う人たち”と捉えてしまいがちだけど、それは違う。実際には犠牲者の方々の身に起きたことは、明日、自分に起きることだと考えるのが水遊びをする者の正しい考え方。
事故から目を背けることなく、もちろん被害者を非難するのでもなく、自分と家族と仲間に置き換えて...具体的には真っ白な風船みたいな滑稽な姿や体の半分を魚に食べられて性別すら不明になって海に漂っている自分や自分の家族をリアルに想像してみること。
自分なりにこの事故がどういう背景と原因で起きてしまったのかを考えてみること。
そして、実際にあらゆる状況を想像して、心構えと道具を準備して、スキルを高め、自分の行動に少しでも生かすこと。加えて自然の中では誰より臆病者であること。
事故が起きる可能性はゼロにはならないけど、ゼロに近づけるよう努力し続けること。 もちろん、危ない場所に一切近付かない、近付かせないという奥の手もあるにはあるし、僕が小学生の頃に3,000人を超えていた水難事故死亡者が1,000人を下回るまでに減少したのは学校における指導によって水辺で遊ぶ人が激減したことが主な理由だろうとは思うんだけれど、それを突き詰めていけば、「生まれなければ 死なない」に行き着くことになるわけで...。
でも、この世に生まれてきたからには、少しでも多くの美しいもの、素晴らしいものを見て触れて感じて...しかも安全にってのを目指すべきじゃないのかなと思うし、そのためには、気象や自然現象を座学と実体験を通じて学び、スローロープやファーストエイドキットの準備と実践練習、人工呼吸法や心臓マッサージ法の習得、そして捜索費用を付保した保険への加入など、考えうる限りの備えをした上で、素晴らしい自然を楽しみたいものだと思う。
犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
【関連記事】
「正しい溺れ方」(2017.7.25)
「使うときは要らなくて、使わないときは要るもの」(2007.7.27)
「泳ぎを覚えるまで水に入ってはいけません」 (2010.7.20)
「風呂のふた」(2010.8.26)
「UITEMATE...THE Ultimate Technique」(2015.8.10)]]>
群れるな・慣れるな・頼るな
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2017-08-04T11:52:00+09:00
2020-05-08T23:12:27+09:00
2017-08-04T11:29:22+09:00
papapaddleraki
-雑感
「月と猫」(1950年頃) Copyright © 2017 Fumiko Hori All Rights Reserved
昨日、本屋で一冊の本を手にした。
『老いて、若返る 人生、90歳からが面白い』...日本画家の堀文子さんと先日お亡くなりになった日野原重明先生との対談本だ。僕はまだ50代になったばかりだし、たぶん70までは生きられない血筋なので、90歳からが面白いと言われても正直なぁって思ったけど(苦笑)、超人のおふたりにとっての90代は、僕にとっての50代、60代と同じなのかも?ってことでとても心に残る対談集だった。
そんな中、昨日の記事を書いていて、昔々、ネットラジオで聞いた番組が記事になっているのを見つけた。ラジオNIKKEIのインタビュー番組だ。
記事のタイトルは『群れるな・慣れるな・頼るな~好奇心を生涯保つ術』。
僕らのこれからの生き方みたいなものを指し示して下さっている内容なので一部を転載させて頂くことにする。
「慣れるな」私の生き方の一番大事なところです。ものに慣れてくると、ものを見なくなってくるんです。知ったかぶりになります。なるべく驚いている状態、不安な状態でいるのが私にとっては薬なんです。
1カ所で同じものをみつめていると感性が鈍ります。しかし、小さいときに初めてものを見たときの驚きは90歳になっても残っています。その感動に近づくためには、なるべくものに慣れないようにするのが大事で、同じところに住まないと決めたわけです。慣れっこになりますと、同じものを見て驚かなくなるんです。例えば軽井沢(長野県軽井沢町)に行って、朝、浅間山を見たときの驚きはすごかったけれど、毎日見ていると当たり前になってしまう。
「群れるな」群れると人と一緒のことをし始めます。自分流に生きることができなくなります。群に迷惑をかけますから、できるだけ一人でいるようにしています。
「頼るな」頼ると、その人にくっついて、肩車に乗り、自分の能力以上のことをしてしまいます。そうすると自分を失います。私は小さいときからあまり人を頼らない子でしたから、あまりかわいがられませんでした。親だって、やはり頼る子、世話の焼ける子のほうが好きですよ。「自分でする」なんて言うと、「嫌な子だねえ」となるわけです。
「でも、人が好き」人は大好きで、尊敬しているし、すばらしいと思うのですけれど、その方にべったりしてしまうと自分を失います。だから自分の巣穴にいるのが好きです。 全くもって同感。「慣れる」ことで好奇心を失い、「群れる」ことで自分を失い、「頼る」ことで自主自立の精神を失なってしまう。ただ、だからと言って人嫌いになるのではなく、自分の立つ場所、戻る場所をちゃんと確保しつつ、他人を尊敬し尊重し、学ぶ...年老いてなお素敵な人生を過ごすために必要な要素の全てがこの短いインタビューに凝縮されているような気がする。
僕のDNAからすれば、堀さんのように99歳になってなお創作意欲が衰えることなく、日々を生き生きと過ごすなんてことは無理にしても、自分に与えられたリミットギリギリまで、自分なりに面白可笑しく有意義に生きることは可能なのかな?出来ればそうありたいものだな、と思う。
久しぶりに堀さんの「花」、「季」、「径」の三部作でも開いてみようかな。]]>
正しい溺れ方
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2017-07-25T21:54:00+09:00
2020-05-08T23:33:25+09:00
2017-07-26T22:30:14+09:00
papapaddleraki
-雑感
夏休みが始まるこの時期になると、不幸な水難事故のニュースが多くなる。
水辺で遊ぶ僕らにとって、そして人の親である僕らにとって、子どもたちが水の事故で命を落とすのは本当に辛いこと。
そんな今日、鳥取・皆生海岸でライフセーバーをされている男性のFacebookの記事を目にして、様々なことを思ったので少し書いておきたいと思う。
まず感じたのは、このライフセーバーさんと同じく子どもの水の事故を防ぐために大切なのはP.F.D(Personal Floating Device)ではなく「目を離さないこと」だってこと。
常に隣にいる必要はなくて、視界の隅っこにいつも自分の子どもの姿を捉えている習慣を心掛けたら、水の事故の多くは防げるはずだと常々感じている(決してゼロにはならないけど)。
次に重要なのは"正しい溺れ方"を体験すること。泳ぎが達者になる前の早いうち(2〜3才)に実際に溺れてみる(溺れさせてみる)ことも必要かと。柔道だって受け身から習うけど、"泳ぎ方"は教わっても"正しい溺れ方"を教えてもらうことがないのは片手落ちだと思うのだ。
不意に水を飲む、両脚が一度に攣る、水流に巻き込まれる...実際に溺れることで水の怖さを覚えるし、そういうアクシデントが起きた時に慌てず”何もしないで浮かんで待つ”ことを身体で覚えることが出来る。
そしてもう一つ、救助する側=陸から見守る人に知って欲しいのは、人が溺れる時ってどれほど静かで目立たないかってこと。
確かにP.F.Dは水難事故防止に役立つ。
でもP.F.Dは水上から水中へ不意に落水することで劇的に環境が変化するウォータースポーツだからこそ必要なのであって、水中でこれさえあれば安心という最近の風潮には同調しかねるのだ。
P.F.Dを身につけて泳いでみたら判るんだけど、全く楽しくない(苦笑)。水面を真っ直ぐ泳ぐだけならプールで充分。海や川で泳ぐ愉しみは自由自在に"潜る"ことにあるのに、P.F.Dで強制的に浮かばされて楽しめるはずがない。
大切なのは、今自分の前にある川や海がどれだけ危険なのかを状況判断し、使うか使わないかを自分で決めること。川ならアンダーカットロックの縦水流とか、海なら離岸流とか、実際に体験してその対処法を知ることじゃないのかなと思うのだ(知識ではなく体験で。何か得体の知れない化け物や霊に足を引っ張られてると感じるのか?それとも"あ、離岸流に乗っちゃったな!"と感じるのかで生死が分かれると思う。)。
その上で、P.F.Dを着けるかどうかを判断する。その判断が甘いと感じた時にのみリーダーなり保護者なりが具体的な理由を挙げてアドバイスする、あるいはディスカッションする。
そこで初めて子どもたちの"学び"が生まれる。(もちろん大人数のコマーシャルツアーや学校教育の現場でこんな丁寧な=まどろっこしいことは出来ないだろうし"まずはP.F.Dありき"もしょうがないから、環境が許せば父親or母親が家庭で教えるべきことだけど...)
個人的には「目を離さないこと」と「スローロープを常に持参すること」(もちろん狙い通り...25mのロープで誤差1m以下のポイントに落とせることが必要)で水難事故のほとんどが防げるのではないかと考えるんだけど。
『P.F.Dがないときは泳いではいけません』ってのは『泳ぎを覚えるまで水に入ってはいけません』と同じ。
これではいつになっても事故は無くならないのかなって思う。
大人になるためには確かに算数や英語も大切だけど、まず教えるべきなのは"自分の命を守る術"じゃないのかな。
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「UITEMATE...THE Ultimate Technique」(2015.8.10)
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Whisper words of wisdom "Let it be".
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2017-07-20T22:50:00+09:00
2020-05-08T23:43:51+09:00
2017-07-21T09:49:10+09:00
papapaddleraki
-雑感
僕は自分が青臭いこと、子供っぽいことは百も承知だ。
実際、ムスコやムスメからはまるでコドモを見るような目で見られてるし、正直なところ仕事関係の知人には自分の休日の過ごし方を話すことが出来ない(恥ずかしくて)。
たぶん、僕が正直に話したら大人同士として扱ってもらえなくなるんだろうな...そんな風に想像しているので、かなり無理をして大人のフリをして、真っ当な社会人という仮の姿を演じている感じではある(苦笑)。
僕には子供の頃から色々な夢があった。
でも、不思議なことに、プロ野球選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、公務員になりたいとか...そういう職業や立場など、生きるための具体的な"手段"ではなく、もっとプライベートな部分...例えば、キャンピングカーで日本中を旅したいとか、ウィルダネスなキャンプサイトで"カノジョ”に朝食を作ってあげたいとか、ログハウスに住んで薪割りをするとかなどなど(究極の夢は"モテ男"になることだったけど、鏡に映る冴えない自分を見て小学生の時に早くも諦めた...笑)
ある意味ちっちゃな夢だけど、そんな小さな夢でさえもすぐには叶わず、学校の先生や両親などの大人たちから自分とは相容れない価値観を押し付けられる屈辱の連続なのが、忌まわしき子供時代ってもの。そんな意味では、早く大人になって、誰にも横槍を入れられないで自由に自分の好きなことがしたいってのが僕の子供の頃の究極の夢だったような気がする。
そんな意味で、僕にとって大人になることは、精神的にも経済的にも誰の制約も受けず自由になること。もちろん自由には責任がもれなく付いてくるわけで、大人として求められる様々な義務を果たすことが求められるわけなんだけど、逆にその最低限の務めを果たしてさえいれば、大人になるってとてもイイもので、だからこそ二度と子供時代...はもちろん、自分に何の力も、言葉に説得力もない大学時代にさえ戻りたいとは思わないんだろうな。
There will be an answer. "Let it be." 僕にとって大人になるということは、コドモの頃に”オトナになったらこんなことがしたい!”って思ってたことをひとつづつ実現すること。努力不足もあるだろうし、DNA情報のレベルもあって(苦笑)、正直なところ、僕自身は誰かの手本となるような立派な大人にはなれなかったけれど、子育ての最中、せめて大人になることをためらうような姿は見せたくないなってことだけは思っていた。
大人はイイぞ〜!楽しいぞ〜!って、早く大人になりたくなるような親で居たいと願っていた(果たしてそれが実行できたのかは別のお話...涙)。
実際、大人になれば子供の頃に想像もしなかった辛いことや大変なことが多くて、理不尽なことの連続だけど、それらをサラリと受け流し(笑)、法律に触れなければ自分の価値観に沿って何でも出来るのが大人の良いところで、しかも中高年と呼ばれる年代になると、様々な"諦め"の境地に達して...ある意味、自分を第三者的な目で冷静に評価できるようになるので、女性にモテたいとか、他人から立派な人に思われたいとかいう、全ての他人から良く思われなければ!という強迫観念*1から解き放たれて、自分は自分、それで何か問題ある?って、堂々としていられるようにもなった。
変な上昇志向とか、女性ウケなど、人目を気にせず自分の価値観に沿って生きられたら、人生って実は軽やかで素敵だ。
Whisper words of wisdom. "Let it be." もちろん、大人だからって全ての夢を叶えられることはないんだけれど、自分の"身の程”をある程度分かっていれば、何だって出来るのが大人になるということ。もしも大人になることが辛いと思った時は、自分ってものを過大評価して、まだよく理解していない...つまり、まだ子供なんだってことなのかなって思ったり。
ま、大人になって叶えられた夢が、海底のタコとの我慢比べじゃなぁって思わなくもないけれど(苦笑)、ネコを拾っても、誰にも捨てて来いって言われないなんて、それだけでも大人になる価値がある気がするって思いませんか?
僕は初めてネコを拾って飼い始めた時、自分が大人になったんだなって実感したものだけど。
51歳ならではのLet it be...悪くない。
*1強迫観念
無意味と思われ,その不合理性を本人は意識しているが,自己の意志に無関係に絶えず頭に浮かび,除去しようとしても取り除けない状態をいう。多くは不安感を伴い,自覚的にも病的と感じられる。正常者にもみられるが,それが精神的活動を束縛し,日常生活を妨げる点に異常性がある。観念の内容によって,自分の行動に落ち度がなかったかどうか気になる疑惑癖,物事の疑問を解かないと気がすまない詮索癖,質問癖などがある。]]>
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