2017年 01月 17日
P.F.Dとスローロープ
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50歳を過ぎ、(悲しいことではあるけれど)僕という人間のあと十数年という残り時間に出来ることの限界が何となく見えてきた今、たぶん人類の未来を左右するような偉業を達成することは難しい中で、何をすべきか?を考えた時、自ずとその答えは出ているような気がする。
僕の体力、知力...人間としての総合的な能力は人並み以下であることは自覚している。たぶん51歳男子の平均値にすらはるかに及ばない。ただ、たとえ人並み外れた能力がある人でも他人の2倍の能力がある人なんてそうはいなくて、どんなに優れた人だって1.1倍とか1.2倍が関の山。
例えば泳力を例にすれば、溺れている人を抱えたまま何kmも泳げる人は少なくて、僕なんかはムスメを背中に載っけて普通に泳げたのは彼女が小学低学年ぐらいまでで、今の僕はフローテーションデバイスなしで水に入って誰かを助けるなんてことは出来そうもない。
同じように大災害に見舞われた時、たぶん僕は自分の身を守るのが精一杯。どう転んでも大勢の人を救助するようなヒーローにはなれなくて、運が良ければそばにいるともちゃんを何とか救い出すことが出来たらいいな、ぐらいの能力しかない。
冷徹だと謗られても、すっかり衰えて若い頃の半分以下になってしまった僕の体力では1人を守るのが精一杯で、残念ながら他の誰かを救うなんてことは考えない方が身のためだと思っている。
ただ、全ての人が自らの身を守ることが出来たなら、能力のある1.2倍の人が5人集まれば、1人を助けることが出来る。つまり僕らのような能力の劣る人間が努力と準備を怠らず、何とか自分と自分の家族を守ることが出来るなら、誰かの助けを必要とせずに自立出来たなら、そこで不要となったパワーを、本当に助けが必要な人を救うために回してもらうことが出来れば、結果的に誰かを助けることになるんじゃないか?
そんな風に思うのだ。
大きな災害が起きた時、いかに自分と自分の家族を守るのか?
今の僕に出来ることは、物心両面で災害への備えを怠らず、常に覚悟をして、粛々と準備をすること。
人並みの能力がないことを自覚し、普段の生活の中で訓練を続けること。
いざという時、僕が使えるのは生まれ持った体力や判断力の範囲でしかないわけだから、何通りもシミュレーションを行って、最悪の事態を想像しておくこと。
先ほど書いたように、水に飛び込んで溺れている人を救うことが出来ないならば、P.F.Dを身に着け、常にレスキューロープ(スローロープ=Throw Rope)を携行し、投擲の練習を重ねることで、フロートをピンポイントで落とすことが出来るように、そして救助される側になった時のためにボディビレイを学んで準備すれば良いだけのことなのだ。
身近な人を守り、救うために努力すること。
たとえ、実際には力足らずで救うことが出来なくても、救うために全力で取り組むこと。
それが僕の生まれてきた意味。
阪神淡路大震災から22年。
1月17日は、2才のムスコと臨月のともちゃんを抱えて、今すぐ準備をしなくっちゃ!と感じた、あの朝に立ち返って様々なことを思う日。
by papapaddleraki
| 2017-01-17 05:47
| -雑感