2016年 03月 20日
春の故郷にて
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青空と早くも新緑の山々、独特のグリーンの湖面、そして咲き誇る花々...故郷の野山はすっかり春の装い。
お彼岸だし曾祖父さんたちのお墓参りに行こうかなって思ったけど、お彼岸にハゲの曽孫坊主が1人でそそくさと仕事の合間に来るより、嫁も一緒に行って綺麗に磨き上げてあげる方が喜ぶかなって思って。山の向こうに向かって合掌&一礼して帰ることにした。
若い頃は、あまり自分の先祖のことを考えることはなく、ましてや会ったことのない曾祖父母に思いを馳せることはほとんどなかったけれど、僕がこうして生きているのも故郷に眠る先祖のおかげ...そんな風に考えるようになった。
死んだら終わり、全てが無になってしまうと思ってたけれど、身近な人を亡くし、また間違いなく忍び寄る"老い"というものを毎日のように意識せざるを得ない毎日の中で、自分が死ぬということを具体的に想像出来るようになった今、たぶんこの身体が死んでも、魂というか心というか、そういう目に見えないものは、何らかの形で残るんだろうなと感じるようになった。
そして、きっと先に逝った家族や友人たちやネコや金魚と、再会することになるんだろうな、なんて思うのだ。
僕という存在が今、ここに在るためには、そのDNAを受け継ぎ続けてくれた何百人(もしかしたら何千人かも?)の先祖が存在する。そして僕がムスコやムスメ、そして未来の孫たちを無条件で愛せるように、何百人、何千人の先祖たちもまた、僕を愛してくれているに違いない。
霊的なもの、オカルトチックな存在をあまり信じていない僕でさえ、50歳ともなるとそんな大勢の人たちの命の営みのおかげでこうして生きていられること、そしてきっと様々な形で守られていることに心強さと感謝の気持ちを覚えるものだ。
たまたま僕は仏教徒の家に生まれて、先祖を敬う気持ちを「南無阿弥陀仏」と唱えて表しているけれども、「妙法蓮華経」でも「アーメン」でも「لا إله إلا الله محمد رسول الل」でも...故郷の美しい青空を見上げながら、信仰と先祖を敬う気持ちを忘れちゃいけないな、と改めて感じた50歳の春の日。
by papapaddleraki
| 2016-03-20 17:23
| -雑感