2009年 02月 22日
リアリティ
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僕は「地球に優しい」という言葉があまり好きになれない。
「自分」と「地球」を別物と捉えている立ち位置に違和感を感じるからだ。人間は地球の一部であって、またちょっと宗教的な感じもあるけど、たぶん全能である神様がこの地球に人間という種を創造されたことに何らかの意味があると思う...というより思いたいからだ。
環境問題を語る時、しばしば自分たち人間の存在を否定する論調に出会うことがある。
人間の数が少なくなれば、極端な話、人類が居なくなれば地球環境は良くなる...化石燃料を採掘して燃やす唯一の生き物は人間で、不完全な科学によって自然界にほとんど存在しない汚染物質を生産し垂れ流したり、林業や農業という名の不自然な植生を増やす行為で、地球の自然環境のバランスを著しく壊している...そんな主張も多い。
でも僕ら人間が基準としている「地球環境」は必ずしも全ての生物に適している環境ではなく、あくまでも人間にとって都合が良い環境に過ぎないことを忘れてはいけないと思う。
大気中のCO2の増加が本当に温暖化をもたらしたのか?あるいは他の要因による温暖化が海水中のCO2の放散を促し大気中のCO2が増加したのか?どちらが正しいかはともかく、僕ら人間という種にとって温暖化がどれだけのマイナスをもたらすのか?それともプラスもあったりするのか?それすらはっきりしない中で、自らは何ひとつ行動を起こさずに浅い知識だけを以って重箱の隅をつつくように環境問題を語るのはいかがなものか?と思う。(割り箸問題とか、レジ袋問題とか...冷静に効果を勘案すれば所詮“心掛け”レベルのものが“義務”へと代わる流れはほとんどファッショじゃないかと思うし)
化石燃料の消費を抑え、薪の活用を進めたり太陽エネルギーを積極的に使うこと...確かにCO2排出量を削減することに繋がる。(もちろん人類の歴史というごく短い時間の尺度で、という条件付き)
地中に眠る化石燃料も実は太古の昔、CO2を吸収した植物が堆積することで生成されたものであって(実はそうではなく、天然ガスや石油のもとになるメタンガスは地球の奥深くで物理的に合成され、無尽蔵にあるという「無機成因論」も合理性を持つことを忘れてはいけないけれど...)、それを掘り起こして燃焼させる行為は、地球を太古の大気組成に戻すだけのことだ。しかし、太古の地球は今の生物には暮らしづらい環境である。だから化石燃料の使用は「悪」だという考え方なわけだ。
化石燃料を燃やすことは太古の昔のCO2を大気に還す行為であるのに対し、薪は薪となる樹木が長くても過去50年以内に吸収したCO2を大気に還す行為である。古くて大きい木ほどCO2を多く吸収すると勘違いしがちだけど、実は木は萌芽期、あるいは成長期にのみ光合成を盛んに行う。ゆえにほとんどCO2を吸収しない成熟した木を伐採して萌芽更新(しかも50年以上の老木より20年以下の若木の方が萌芽が活発に起きるといわれている)を促す方が単位面積あたりのCO2吸収量は多くなる。50年前も人間を含む地球上の生物は今と同じように暮らしていたから樹木が成長段階で吸収したCO2と薪にして燃やした際のCO2の放出は±ゼロと“見做す”ことができ、すなわち「善」である...これがいわゆる“カーボンニュートラル”の意味なのだ。
要するに人間にとって暮らしやすいか否か?「環境問題」はただそれだけの論理であって、地球にとっては“薄皮”のような大気に酸素が多かろうと二酸化炭素が多かろうと、それはどっちでもいいこと。もしも僕が地球だったら、『ワシはどっちでもエエねんで。困るのんはキミらだけやのにワシを守るとか大切にしよ、とか要らんお節介やわ。』と思うことだろうな(笑)。
僕ら人間に出来ることは、自分たち...あるいは自分たちの子孫のために、急激な環境変化をもたらさないように心掛けること。大上段に構えて今日からCO2排出をゼロにしようってな無理をするのではなく、普段の暮らしの中で1%でも2%でも無駄な排出を抑えるよう“心掛ける”こと。そんな単純な話ではないことは分かっているけれど、今の僕らの“心掛け”が目に入れても痛くない(と思う)子孫たちが1代でも2代でも長く暮らせる地球環境維持に繋がるとしたら、それはとっても楽しいこと。
そんなわけで、僕は今日も薪を割る。
『前時代的』
『薪ストーブなんてリアリティがない』
そんな風に嘲笑されたとしても、僕は薪を割る。
リアリティがないのではなくリアリティがないと感じているだけ。本当にリアリティがないのは都市部という特殊な地域に住むの一部の人たち(*しばしば彼らは自分たちの常識が全国的に通用すると勘違いしていることがある)であって、その気になれば日本全国の多くの地域で薪ストーブを使うことは可能だと思う。何故なら薪となる伐採された樹木はその気になればどこにだってあるわけなんだから(野鳥と同じく)。
自宅近くで伐採され、ゴミとして燃やされる or 打ち捨てられて朽ちてゆく広葉樹(朽ちることで燃やすのと同じだけCO2を排出する)を数十ccのガソリンを使ってチェーンソーで切り、数リットルの軽油を焚いてトラックで持ち帰り、運動を兼ねて薪割りし、2年間太陽で乾燥させて燃料として使う...もちろん、これを長年続けるには遊び心というか、遊び半分で楽しめるか否かに掛かってくるとは思うけど、僕のような住宅団地に住むひ弱な“街の子”ですら片手間に出来ちゃうことなんだから、ほとんどの男性と一部の女性(笑)には容易な作業だと思う。もちろん全国のご家庭がもれなく薪ストーブ!ってことになっちゃったら薪が足りなくなるのは間違いないけれど、僕の知る限り薪として使われず廃棄物として捨てられる木がまだまだあるのは確かだ。
何かを始めてから語ろうよ...僕ら薪ストーブユーザーを嘲笑する人たちにそう言いたい。出来ないものはしょうがないけれど、出来るのに何もしないのはちょっとだけ罪だし、出来るのに何もせずに口だけ達者なのはもっと罪だと思う。論議だけが先行する机上の空論ではなく、その優秀な頭脳を浪費させずに自分の身体を動かして何かトライしてみる人がもっと増えたら...それを作るためにどれほどCO2が排出されるかを理解せずに安易にバイオ燃料を口にしたり、ハイブリッドカーや燃料電池を万能だと勘違いしたりするのではなく、それぞれのレベルに合わせて出来ることをやってみる。環境問題への取り組みって、お寺や神社へのお布施やお賽銭に似て、自分の財布の中身(実力?)に合わせて、最大限であればそれでいいのかな?と思う。
僕は今日も薪を割る。
帰宅してから夕食までのほんの30分で10日ぶんの薪を割る。
汗をかく。風呂に入る。ビールを飲む。旨い!
僕にとって、これがリアリティ。
↑これは昨夜の僕のリアルな成果 本日ニャンニャンニャン(222)で“ネコの日”↓
“ノラ出身なので、これがいちばんおちつくのでしゅ“by うり
「自分」と「地球」を別物と捉えている立ち位置に違和感を感じるからだ。人間は地球の一部であって、またちょっと宗教的な感じもあるけど、たぶん全能である神様がこの地球に人間という種を創造されたことに何らかの意味があると思う...というより思いたいからだ。
環境問題を語る時、しばしば自分たち人間の存在を否定する論調に出会うことがある。
人間の数が少なくなれば、極端な話、人類が居なくなれば地球環境は良くなる...化石燃料を採掘して燃やす唯一の生き物は人間で、不完全な科学によって自然界にほとんど存在しない汚染物質を生産し垂れ流したり、林業や農業という名の不自然な植生を増やす行為で、地球の自然環境のバランスを著しく壊している...そんな主張も多い。
でも僕ら人間が基準としている「地球環境」は必ずしも全ての生物に適している環境ではなく、あくまでも人間にとって都合が良い環境に過ぎないことを忘れてはいけないと思う。
大気中のCO2の増加が本当に温暖化をもたらしたのか?あるいは他の要因による温暖化が海水中のCO2の放散を促し大気中のCO2が増加したのか?どちらが正しいかはともかく、僕ら人間という種にとって温暖化がどれだけのマイナスをもたらすのか?それともプラスもあったりするのか?それすらはっきりしない中で、自らは何ひとつ行動を起こさずに浅い知識だけを以って重箱の隅をつつくように環境問題を語るのはいかがなものか?と思う。(割り箸問題とか、レジ袋問題とか...冷静に効果を勘案すれば所詮“心掛け”レベルのものが“義務”へと代わる流れはほとんどファッショじゃないかと思うし)
化石燃料の消費を抑え、薪の活用を進めたり太陽エネルギーを積極的に使うこと...確かにCO2排出量を削減することに繋がる。(もちろん人類の歴史というごく短い時間の尺度で、という条件付き)
地中に眠る化石燃料も実は太古の昔、CO2を吸収した植物が堆積することで生成されたものであって(実はそうではなく、天然ガスや石油のもとになるメタンガスは地球の奥深くで物理的に合成され、無尽蔵にあるという「無機成因論」も合理性を持つことを忘れてはいけないけれど...)、それを掘り起こして燃焼させる行為は、地球を太古の大気組成に戻すだけのことだ。しかし、太古の地球は今の生物には暮らしづらい環境である。だから化石燃料の使用は「悪」だという考え方なわけだ。
化石燃料を燃やすことは太古の昔のCO2を大気に還す行為であるのに対し、薪は薪となる樹木が長くても過去50年以内に吸収したCO2を大気に還す行為である。古くて大きい木ほどCO2を多く吸収すると勘違いしがちだけど、実は木は萌芽期、あるいは成長期にのみ光合成を盛んに行う。ゆえにほとんどCO2を吸収しない成熟した木を伐採して萌芽更新(しかも50年以上の老木より20年以下の若木の方が萌芽が活発に起きるといわれている)を促す方が単位面積あたりのCO2吸収量は多くなる。50年前も人間を含む地球上の生物は今と同じように暮らしていたから樹木が成長段階で吸収したCO2と薪にして燃やした際のCO2の放出は±ゼロと“見做す”ことができ、すなわち「善」である...これがいわゆる“カーボンニュートラル”の意味なのだ。
要するに人間にとって暮らしやすいか否か?「環境問題」はただそれだけの論理であって、地球にとっては“薄皮”のような大気に酸素が多かろうと二酸化炭素が多かろうと、それはどっちでもいいこと。もしも僕が地球だったら、『ワシはどっちでもエエねんで。困るのんはキミらだけやのにワシを守るとか大切にしよ、とか要らんお節介やわ。』と思うことだろうな(笑)。
僕ら人間に出来ることは、自分たち...あるいは自分たちの子孫のために、急激な環境変化をもたらさないように心掛けること。大上段に構えて今日からCO2排出をゼロにしようってな無理をするのではなく、普段の暮らしの中で1%でも2%でも無駄な排出を抑えるよう“心掛ける”こと。そんな単純な話ではないことは分かっているけれど、今の僕らの“心掛け”が目に入れても痛くない(と思う)子孫たちが1代でも2代でも長く暮らせる地球環境維持に繋がるとしたら、それはとっても楽しいこと。
そんなわけで、僕は今日も薪を割る。
『前時代的』
『薪ストーブなんてリアリティがない』
そんな風に嘲笑されたとしても、僕は薪を割る。
リアリティがないのではなくリアリティがないと感じているだけ。本当にリアリティがないのは都市部という特殊な地域に住むの一部の人たち(*しばしば彼らは自分たちの常識が全国的に通用すると勘違いしていることがある)であって、その気になれば日本全国の多くの地域で薪ストーブを使うことは可能だと思う。何故なら薪となる伐採された樹木はその気になればどこにだってあるわけなんだから(野鳥と同じく)。
自宅近くで伐採され、ゴミとして燃やされる or 打ち捨てられて朽ちてゆく広葉樹(朽ちることで燃やすのと同じだけCO2を排出する)を数十ccのガソリンを使ってチェーンソーで切り、数リットルの軽油を焚いてトラックで持ち帰り、運動を兼ねて薪割りし、2年間太陽で乾燥させて燃料として使う...もちろん、これを長年続けるには遊び心というか、遊び半分で楽しめるか否かに掛かってくるとは思うけど、僕のような住宅団地に住むひ弱な“街の子”ですら片手間に出来ちゃうことなんだから、ほとんどの男性と一部の女性(笑)には容易な作業だと思う。もちろん全国のご家庭がもれなく薪ストーブ!ってことになっちゃったら薪が足りなくなるのは間違いないけれど、僕の知る限り薪として使われず廃棄物として捨てられる木がまだまだあるのは確かだ。
何かを始めてから語ろうよ...僕ら薪ストーブユーザーを嘲笑する人たちにそう言いたい。出来ないものはしょうがないけれど、出来るのに何もしないのはちょっとだけ罪だし、出来るのに何もせずに口だけ達者なのはもっと罪だと思う。論議だけが先行する机上の空論ではなく、その優秀な頭脳を浪費させずに自分の身体を動かして何かトライしてみる人がもっと増えたら...それを作るためにどれほどCO2が排出されるかを理解せずに安易にバイオ燃料を口にしたり、ハイブリッドカーや燃料電池を万能だと勘違いしたりするのではなく、それぞれのレベルに合わせて出来ることをやってみる。環境問題への取り組みって、お寺や神社へのお布施やお賽銭に似て、自分の財布の中身(実力?)に合わせて、最大限であればそれでいいのかな?と思う。
僕は今日も薪を割る。
帰宅してから夕食までのほんの30分で10日ぶんの薪を割る。
汗をかく。風呂に入る。ビールを飲む。旨い!
僕にとって、これがリアリティ。
↑これは昨夜の僕のリアルな成果 本日ニャンニャンニャン(222)で“ネコの日”↓
by papapaddleraki
| 2009-02-22 10:02
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